Chenyuanyun
陳元贇
陳元贇
陳元贇(1587-1671):中国明末の文人、杭州の出身で、字は義都、号は芝山、既白山人など。元和5(1619)年33歳の時に来日し、長崎・京・江戸を往来し、当時来日明人の中の白眉と呼ばれていました。寛永3(1626)年には三代将軍家光に謁見し、詩を賦したこともありました(徳川実紀)。後に家康の九男、義直がその名声を聞き、彼を尾張に招聘し、元贇は心を尽くして義直に仕えました。寛文11(1671)年6月9日、日本で亡くなり、尾張德川家の菩提寺である徳興山建中寺に葬られました。陳元贇は在日すること52年にわたり、多芸博識で書道、詩文のほか、武術、「元贇焼」と呼ばれる陶器の作り方、定光寺源敬公廟の設計など、中国の文化を日本に伝達し、尾張藩にとどまらず日本文化を高めることに貢献した人物です。
Attraction
陳元贇の魅力
多芸多才
陳元贇は多芸博識で、詩、書、製陶、拳法など多方面に亘って日本文化に貢献した人物です。
拳法を日本に伝えた
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東京愛宕神社に「起倒流拳法碑」という石碑があります。この石碑は一七七九年二月に建てられたもので、碑文の撰者は江戸中期の漢学者平沢旭山です。碑文に「拳法之有傳也自投化明人陳元贇而始」の記述があり、これより陳元贇が日本の柔道の祖であると主張する説があります。
漢詩
陳元贇は江戸初期の日本詩壇に及ぼした影響は、日蓮宗の僧侶である元政との交流を通じて、元政に公安派詩人袁宏道の詩を紹介し、後に元政によって、性霊派の詩風を日本に伝えたことです。また、二人が漢詩の唱和をした時の作品を収めた詩集『元元唱和集』、寛文三年(一六六三)に刊行された。これは日中文化交流の結晶です。
元贇焼
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元贇焼について『国焼茶盌』(佐々木三昧、1949)では、「瀬戸の土を取り寄せ、これに呉須で書畫を書き、白青色の水釉をかけて焼き上げたもので、安南に似て雅趣に富み、元贇焼と呼んで好事家が珍重しました。」と述べています。
建築
瀬戸市水野にある応夢山定光寺は建武3(1336)年に創建された臨済宗妙心寺派の古刹です。尾張藩初代藩主徳川義直(1601~50)はこの地で狩りをした折、当寺に立ち寄り、きれいな風景が気に入って自らここを廟所に決めたと伝えられています。慶安3(1650)年、義直の遺命により定光寺で儒教形式の葬儀が行われ、慶安4(1651)年には墳墓と石標、承応元(1652)年に唐門、焼香殿、宝蔵、築地塀、龍の門が建てられました。この廟は日本では珍しい儒教式の配置で、義直に仕えた明人陳元贇の設計によるものとされ、『資料旧国宝建造物指定説明』(財団法人文化財建造物保存技術協会編、1982)は「源敬公(徳川義直)廟」は中国人陳元贇の設計になると伝えるもので、「ソノ儒式の配置、各建造物ノ漢式ヲ含ム意匠ハ、江戸時代初期ノ廟建築中ノ異彩アルモノトシテ、注目二値スルモノデアル」 と、現在は国の指定重要文化財になっています。